韓国が日本の植民地になった歴史的経緯とは?

日清戦争と日露戦争

1894年2月、東洋思想を信奉する多くの農民が政治への怒りを爆発させて全羅道(チョルラド/朝鮮半島西南部)で決起しました。ここに「甲午(カボ)農民戦争」が始まったのです(「東学党の乱」とも呼ばれます)。
危機に瀕した朝鮮王朝が清の軍隊に頼ろうとしたのですが、すかさず日本も在留邦人の保護を名目に出兵しました。もはや日本と清の戦闘は避けられなくなりました。
1894年8月1日、日本は清に対して正式に宣戦を布告しました。ここに日清戦争が始まったのです。
戦争を遂行する日本の目的は、朝鮮半島を保護国にすることでした。実際、清との戦争中に朝鮮半島は日本の占領下に置かれました。
日清戦争を有利に進めた日本は、1895年4月に清との間で日清講和条約(下関条約)を結び、莫大な利権を手中に収めました。
とりわけ大きかったのが、清の勢力を完全に朝鮮半島から追い出したことです。いよいよ日本の朝鮮半島支配に拍車がかかったのです。




危機感を強めた朝鮮王朝は、ロシアに接近しました。とりわけ、閔氏は日本に抵抗する姿勢を鮮明にしたのです。
日本は強硬手段に出ました。1895年10月に王宮に乱入した一派が閔氏を暗殺。王妃が外国勢力に惨殺されるという事件が起こったのです。
閔氏(ミンシ)亡きあと、朝鮮王朝には親日政権が誕生しました。しかし、1896年2月に高宗(コジョン)はひそかに王宮を脱出してロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを次々に処罰しました。以後、朝鮮王朝はロシア寄りの政治姿勢を鮮明にしたのです。
高宗がようやくロシア公使館から王宮に戻ったのは1年後でした。彼は1897年10月に国号を「大韓帝国」と改めて初代皇帝の座に就きました。
20世紀に入ると、日本とロシアの対立が非常に激しくなり、1904年2月に日露戦争が始まりました。
いちはやく大韓帝国は中立を宣言しましたが、日本は軍事力を背景に朝鮮半島の全土を支配下に置きました。(ページ4に続く)

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