激動の歴史を記録する7「思悼世子の悲劇」

 

21代王・英祖(ヨンジョ)の息子である荘献(チャンホン)。彼は、王の後継者という立場でありながら、ある悲劇に見舞われてしまう。いったい何があったのだろうか。

サドセジャ




親子の間に生まれた確執

英祖には息子が2人いた。長男の孝章(ヒョジャン)は、1719年に生まれたが、病気によって9歳で世を去ってしまう。英祖は、息子の死をとても悲しんだが、1735年に二男の荘献が生まれた。
生まれつき聡明だった荘献は、儒教の教典の1つである「孝経(ヒョギョン)」を2歳で暗唱したという。2歳という年齢でどのくらい暗唱できたのかは謎だが、すごいことに変わりはない。その後も周りの大人たちを驚かせる早熟ぶりを見せたが、荘献は10歳のときにいくつかの政策を批判してしまい、老論派から警戒されてしまう。老論派とは、19代王・粛宗(スクチョン)の時代に、王になる前の英祖の後ろ盾となっていた派閥である。
荘献は、14歳のときに父親の英祖から政治の一部を任されるが、それが原因で荘献と老論派の相性の悪さが決定的になってしまう。荘献の足を引っ張り始めた老論派は、荘献の素行の悪さが英祖の耳に入るようにした。




そういった噂を耳にした英祖によって、何度も庭に呼びだされて叱責を受けた荘献は、次第に父親の言うことを聞かなくなり、親子の間に確執が生まれた。それでも、老論派は荘献が不利になるような工作を繰り返した。
老論派によって不利な立場にさせられた荘献。その首謀者は、なんと彼の身内だった。たとえば、荘献の妻である恵嬪(ヘビン)・洪(ホン)氏の叔父である洪麟漢(ホン・イナン)、英祖の二番目の正室の貞純(チョンスン)王后、荘献の妹の和緩(ファワン)などだ。いくら荘献が聡明だったとしても、これだけの身内に陥れられたらひとたまりもない。
しかし、荘献にも落ち度はあった。彼は、側室を殺害するという罪を犯していたし、妓生(キーセン)と放蕩を繰り返していた。
老論派は官吏の1人をそそのかして、荘献が謀叛を企てていると訴えさせた。それを聞いて激怒した英祖は、自分の息子に自決を命じた。
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