『トンイ』と『イ・サン』の歴史がわかる年表物語(中編)

 

『トンイ』と『イ・サン』が描く時代を時系列に沿って年表で見る記事の2回目。いよいよ、物語は張禧嬪(チャン・ヒビン)が死罪になる事件を扱っていく。




激動の時代を描く

淑嬪・崔氏が王子を産み、粛宗(スクチョン)の愛情はますます淑嬪・崔氏に注がれるようになった。そして、王宮を揺るがした「1701年」を迎えた。

1701年 8月14日に仁顕王后が亡くなる。
9月25日に粛宗が張禧嬪に対して自決するように促す。
10月3日に張禧嬪を擁護する意見書が高官から提出される。
10月8日に粛宗は張禧嬪に自決を命じる。

長く病床にあった仁顕王后が亡くなった後、張禧嬪が祠(ほこら)を建てて仁顕王后を呪い殺そうとしていたことが発覚。激怒した粛宗は張禧嬪を自決させようとした。
しかし、当時の世子(王の後継者)は張禧嬪が産んだ息子だった。
将来の王の生母を自害させるわけにはいかない、ということで高官たちがこぞって反対したのだが、粛宗は意見を聞かずに張禧嬪を死罪にした(それは『トンイ』では第55話で描かれた)。




その後、淑嬪・崔氏と粛宗が亡くなり、時代は張禧嬪や淑嬪・崔氏の息子たちの時代となる。

1718年 淑嬪・崔氏が亡くなる。
1720年 粛宗が世を去り、張禧嬪の息子が景宗(キョンジョン)として即位。
1724年 淑嬪・崔氏の息子が即位。21代王・英祖(ヨンジョ)となる。
1735年 英祖の息子の思悼(サド)世子が生まれる。

景宗には子供がいなかったので、彼が亡くなったあとは異母弟の英祖が王位に上がった。彼は高い統治能力を見せて善政を行なった。

『トンイ』と『イ・サン』の歴史がわかる年表物語(前編)

『トンイ』と『イ・サン』の歴史がわかる年表物語(後編)

トンイ(淑嬪・崔氏)が王宮入りした経緯が怪しい!

トンイ(淑嬪・崔氏)は陰で何を画策していたのか?

『トンイ』と史実!張禧嬪(チャン・ヒビン)の最期がまるで違う

注目記事のエッセンス1

記事「トンイは張禧嬪(チャン・ヒビン)より悪女なのか?」

ドラマ『トンイ』は日本でも大人気を博した。トンイを演じたハン・ヒョジュの魅力もあって、トンイがいかにも明るくて純粋な女性のように描かれていた。一方の張禧嬪は、朝鮮王朝3大悪女の1人に数えられて、悪女の代名詞になっている。しかし、本当の悪女はどちらだったのだろうか。史実を見ていくと、トンイの別の顔が見えてくる。

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