トンイと張禧嬪はなぜ争ったのか2「淑嬪・崔氏の登場」

 

「朝鮮王朝実録」の1689年5月6日の記述です。粛宗(スクチョン)は重臣を集めて、1日も早く王妃を決めなければならないと語った後、「張禧嬪(チャン・ヒビン)をただちに王妃に冊封(王族の重要な地位に任命すること)したい」と力説します。




二大派閥の対決

粛宗の言葉を聞いて重臣たちは困惑し、「いつ頃、新しい王妃をお決めになりたいのですか」と質問すると、粛宗は敢然と言い放ちます。
「すでに暦を調べてある。まさに今日が吉日なのだ」
すごく強引です。“今日が吉日”とは手回しがよすぎます。粛宗のこんな論理がまかり通れば、世の中に吉日でない日がなくなってしまいます。
張禧嬪の王妃冊封は強行されましたが、仁顕(イニョン)王后の追放から張禧嬪の王妃昇格に至る出来事は、この時期に非常に激しかった党争が深く関係しています。
実際、粛宗の時代は南人(ナミン)派と西人(ソイン)派が争いました。張禧嬪が南人派、仁顕王妃が西人派です。
結果的には、仁顕王妃が廃妃されて南人派が勢力争いに勝ったことになりますが、西人派も黙っていません。彼らは虎視眈々と南人派を追い落とす機会をうかがっていました。そんな西人派にとって“希望の女神”となったのが、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)でした。




彼女はもともと、宮中で水を運ぶ下働きをしていた女性でした。身分は低く、本来なら王の前に出ていける立場ではありません。それがどういうわけか粛宗の寵愛を受けるようになります。
推察すると、こういうことではないでしょうか。粛宗は張禧嬪を念願の王妃にしたあと、急速に彼女への関心を失ってしまいます。意中の女性を射止めるまでが粛宗にとっての“寵愛”であり、それが達成されると、早くも他の女性に目が移ってしまったのです。
そして、粛宗が張禧嬪に代わって“寵愛”の対象にしたのが淑嬪・崔氏でした。おそらく、彼女は西人派が送り込んできた女性でしょう。
こうして、“南人派の張禧嬪”と“西人派の淑嬪・崔氏”という対決構図ができあがったのです。
西人派が逆襲に出たのは、1694年3月29日でした。この日、西人派に属する官僚たちが告発書を粛宗に差し出します。そこには、「張禧嬪の兄が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」という内容が記されていました。




粛宗は驚愕しますが、それだけで終わらせないのが粛宗のしたたかなところです。彼は自分の王権を強化するために、淑嬪・崔氏の毒殺疑惑を利用して政変を起こします。というのは、勢力が強すぎる南人派を弱体化させるために、王命を発して南人派の高官たちを次々に罷免したのです。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

(次に続く)

トンイと張禧嬪はなぜ争ったのか1「仁顕王妃の廃妃」

トンイと張禧嬪はなぜ争ったのか3「窮地に陥った張禧嬪」

トンイと張禧嬪はなぜ争ったのか4「王の母になった2人」

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