「朝鮮王朝三大悪女」の1人として有名な張禧嬪(チャン・ヒビン)。彼女は、19代王・粛宗(スクチョン)の王妃として一度は頂点に君臨するが、再び側室に戻されて死罪となっている。果たして、張禧嬪はどのような女性だったのだろうか(張禧嬪については、韓国時代劇の史実とフィクションの違いを解説した康熙奉〔カン・ヒボン〕著・実業之日本社発行の『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』で紹介しています)。
王妃となった張禧嬪
親戚に通訳官をしている人がいたことから、女官として王宮によく出入りしていた張禧嬪は、そこで19代王・粛宗と出会う。
とても美しい容姿を持っていた彼女は、すぐに粛宗の寵愛を受けるようになる。
しかし、粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后は、息子にとって危険な存在だと感じた張禧嬪を王宮から追い出してしまう。
それにより貧しい生活を送ることになってしまった張禧嬪だが、明聖王后が1683年に世を去ると、粛宗の正室である仁顕(イニョン)王后によって戻ってくることができた。
本来、張禧嬪は仁顕王后に感謝すべきなのだが、王の寵愛を受けていることをいいことに、感謝するどころかわがままに振る舞うようになった。
自分のしたことを後悔した仁顕王后。そんな彼女の立場を不利にするできごとが起きる。
王の寵愛を受けていた張禧嬪が、1688年に息子の昀(ユン/後の20代王・景宗〔キョンジョン〕)を産んだのである。
このとき、まだ粛宗と仁顕王后の間に子供はいなかった。(ページ2に続く)
粛宗(スクチョン)の母が張禧嬪(チャン・ヒビン)を王宮から追い出した!