長く女帝のようにふるまった王妃とは?/朝鮮王朝ランキング5

 

朝鮮王朝には、幼い王に代わって母親(または祖母)が代理で政治を行なう垂簾聴政という制度があった(簾の奥から幼い王に指示を出すので垂簾聴政と呼ばれた)。朝鮮王朝の社会は男尊女卑ではあったが、垂簾聴政は女性が政治を動かすことができる唯一の機会だった。




貞熹王后の思惑

朝鮮王朝で初めて垂簾聴政を行なったのが、7代王・世祖の正室だった貞熹(チョンヒ)王后だ。その経緯を見てみよう。
1469年、19歳の若さで8代王・睿宗(イェジョン)が、後継ぎを指名することなく亡くなった。彼には息子がいたが、まだ5歳と幼すぎて後継者から早々と除外された。その結果、王宮では次の王を誰にすべきかで混乱が起きた。
貞熹王后は、側近たちに助けを求めた。様々な思惑が渦巻いたが、若くして亡くなった睿宗の兄の息子2人から王を選ぶことになった。こういう場合、普通は兄が選ばれるものなのだが、意外にも弟が次の王に指名された。貞熹王后が弟のほうを指名した理由の一つは、成人するまでに自分が長く垂簾聴政をできるからだった。
1469年、弟は12歳で9代王・成宗(ソンジョン)として即位した。貞熹王后は思惑どおりに成宗が成人するまで垂簾聴政を続け、宮中で権力をほしいままにした。また、王位から除外された睿宗の息子と成宗の兄が復讐しないように、彼らに高い役職を与えて手厚くもてなした。




好き勝手に政治を操った貞熹王后だが、成宗が成人すると身を引いた。しかも、垂簾聴政の間、勉学に励んだ成宗は名君となった。
同じく垂簾聴政を行なった王妃でも、11代王・中宗(チュンジョン)の正妻であった文定(ムンジョン)王后は評判が悪い。
彼女は中宗の3人目の正室である。1人目の正室の息子が12代王・仁宗(インジョン)になると、敵意をあらわにした。文定王后は執拗に仁宗の命を狙い、自分の息子を王にしようと画策した。結局、仁宗は即位して7カ月で病死したが、文定王后が毒殺したのではないかと疑われている。
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