文定王后が大妃(王の母)になったことが朝鮮王朝の不運だった!

 

本来であれば王妃にさえなれなかった女性が、最終的に大妃(テビ/国王の母)になって、朝鮮王朝を大混乱に陥れた。それが文定(ムンジョン)王后である。彼女はなぜ、絶対的に強い立場になれたのだろうか?




クーデターのおかげで王になった中宗

文定王后は、11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室であった。
中宗は、9代王・成宗(ソンジョン)の二男であり、本来なら王になれる可能性はなかった。兄の燕山君(ヨンサングン)が10代王として即位していたからである。
しかし、史上最悪の暴君と呼ばれた悪政続きの燕山君は、1506年にクーデターによって王座を追われて廃位となってしまった。その結果、燕山君の異母弟であった中宗が11代王として即位したのである。
しかし、棚からボタ餅で王になった中宗は、クーデターを成功させた官僚たちにまったく頭が上がらなかった。
中宗の正妻は慎(シン)氏で、2人は大変仲のいい夫婦だったのだが、官僚たちは、即位したばかりの中宗に離婚を迫った。なぜならば、慎氏は燕山君の妻の姪であり、父親も燕山君の側近だったからだ。つまり、クーデターを成功させた官僚たちは、慎氏があまりにも燕山君の関係者に近すぎたために、後に利用されて燕山君派の巻き返しに遭うのを恐れたのである。




中宗も、絶対的権力者の王である以上は、いくら官僚たちから言われても「それは絶対にできぬ」と拒めばいいのだが、意気地がなかった中宗はそれができずに言いなりになって妻を離縁した。
そんな彼が再婚した相手が、章敬(チャンギョン)王后だった。
彼女は1515年に、中宗の長男を産んだ直後に他界してしまい、再び王妃の座が空いてしまった。
その結果、三番目の正室として迎えられたのが文定王后だった。つまり、文定王后は、自分が思いもよらぬ形で王妃まで上りつめたのである。
一方、中宗の後継ぎは二番目の正室の章敬王后が産んだ長男で、中宗が1544年に亡くなった後に12代王・仁宗(インジョン)として即位した。
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