ついに最終決戦
初めは朝倉軍が優勢だったのだが織田の本陣すらも危ないと悟った家康は、朝倉軍の側面を切り崩した。
これが功を奏して、浅井軍のほうも総崩れとなってしまった。結果的に9600人の死者を出した浅井・朝倉の連合軍の敗戦となった。
とはいえ、浅井・朝倉の連合軍にはまだ余力が残っていた。
最終決戦となったのは、1573年8月だった。
8月8日の夜に岐阜城を出陣した織田軍は、連合する浅井勢と朝倉勢の分断を狙い、8月13日には朝倉義景軍を越前の国境近くで破った。
惨敗した義景は15日にようやく根拠地の一乗谷に戻ったが、裏切り者が出て、8月20日に落ちのびた寺で自害した。信長に追い詰められた末に生きのびるすべがなかったのである。(ページ4に続く)