新しい文字を創製した偉大な国王・世宗(セジョン)は1450年に亡くなったが、学問好きな彼が残した遺産は大きかった。優秀な学者を登用したおかげで、朝鮮王朝は政治や社会の様々な分野で法の整備が進んだ。
非情な国王交代
王朝にとって誤算だったのは王位の後継者問題でもめたことだ。世宗の後は長男が継いで5代王の文宗(ムンジョン)となったが、病弱のためにわずか2年で世を去ってしまった。その次には文宗の息子が即位して端宗(タンジョン)となったが、わずか11歳であったために混乱が起きた。
なんと、世宗の二男だった首陽(スヤン)がおどすような形で兄の息子から王位を奪って7代王の世祖(セジョ)となったのである。
叔父が甥に対して行なった非情な行為に対し、高官たちから批判が起こった。特に、世宗や文宗の側近たちが反旗をひるがえし、王位の奪還を狙った。この動きを察知した世祖は、多くの高官をとらえて処刑した。その中には成三問(ソン・サムムン)を初めとする「死六臣」が含まれていた。
彼らは非常に優秀で忠義の心が強かった。世祖も殺すのが惜しくて、なんとか自分の側近になれと説得したのだが、絶対に応じなかった。処刑されても忠義を守ったということで、彼らは後世から称賛をこめて「死六臣」と呼ばれた。
即位当初は悪評だらけの世祖だったが、彼は政治的には能力が高く、土地制度の改革、軍事力の充実、国の基本法典の編纂などで力を発揮した。
こうした世祖の政治を引き継いだのが1469年に即位した9代王・成宗(ソンジョン)で、彼は朝鮮王朝の統治体制の基本となった「経国大典」を作った。今で言うと憲法を制定したようなものであり、成宗の業績は高く評価されている。
成宗の治世は1494年まで続いたが、その時点で朝鮮王朝は建国からほぼ100年を経過した。政治の基盤は完全に整い、王朝はまさに安定期を迎えようとしていた。その時期に、国内を大混乱に陥れる暴君が現れた。とんでもない王の名は燕山君(ヨンサングン)。朝鮮王朝27人の王の中で最悪の男である。
悪行は数知れないが、生母の死罪に関係した官僚たちをねこそぎ処刑した事件は悲惨だった。すでに死んでいる官僚の場合は、その墓を掘り返して死人の首をはねるという暴挙まで行なった。
燕山君の私生活はまさに酒池肉林。朝鮮王朝の最高学府は成均館(ソンギュングァン)だったが、その学問の場を日夜宴会場にして酒色にふけった。しかも、庶民がハングルで燕山君を批判する落書きをすると、ハングルそのものを禁止してしまった。文字を使うな、というのは常軌を逸している。
国政は乱れ、人心も離れた。それでも、燕山君は乱れた生活をやめなかった。
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