逃亡した豊璋
唐は、突っ込んできた日本の水軍を左右から挟み打ちにした。
このときの状況を「日本書紀」は、「たちまち日本の軍は敗れてしまった。川に落ちて溺死する者が多かった。百済王の豊璋は数人と一緒に船に乗って高句麗へ逃げた」と記している。
威勢が良かったわりに、豊璋はいざとなって真っ先に逃げた。所詮、戦いを指揮する器ではなかったのだ。
こうして、百済復興は夢と散った。
水軍が白村江の戦いで敗れたあと、大和の朝廷が最も恐れたのが、新羅と唐が襲いかかってくることだった。
朝廷は九州北部を初めとした日本海側の沿岸部に防御用の築城を進めた。
防衛の総仕上げが大津への遷都だった。近江の大津は交通の要衝で、敵の攻撃を受けたとき東に避難するのに都合が良かった。
朝廷は都を667年から672年まで大津に置いたが、672年に壬申の乱が起きて大津宮は廃墟となった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)