1762年、21代王の英祖(ヨンジョ)は息子の思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めてしまう。思悼世子の素行の悪さに英祖が激怒した結果だった。果たして、結末はどうなったのか。
王宮の一角に置かれた米びつ
時代劇『イ・サン』の第1話の冒頭を振り返ってみよう。
ドラマは、宮中で華やかな祝宴が行なわれているときに謀反が起きて、英祖が命の危険にさらされるところから始まる。
避難する英祖の前に不敵な笑みを浮かべて現れたのは、思悼世子だった。驚いた表情で息子を見つめる英祖が声をしぼりだして言った。
「世子よ、なぜ?」
まさに、英祖は思悼世子によって命を奪われようとしていた。
そのとき、英祖は眠りから覚める。すべては夢だったのだ。
寝覚めの悪さから茫然としている英祖は、すぐに米びつに閉じ込めた思悼世子のことを考えた。
<息子は本当に謀反を起こそうとしたのか……>
英祖は夢と現実が入り交じった複雑な表情を浮かべた。
そんな英祖の思いを受け継いで、画面は王宮の一角に置かれた米びつに切り替わっていく。その中に閉じ込められた思悼世子を数人の家来たちが助けようとする。
しかし、家来たちは王宮の護衛兵たちに襲われて全滅してしまう。
思悼世子の家来たちが全滅するという騒動のあと、今度は思悼世子の息子のサン(当時10歳で後の22代王・正祖〔チョンジョ〕)が現れる。サンは米びつに近づいてはならないという王命にそむき、危険をかえりみずに父に会いにきた。
しかし、父の思悼世子はかすれた声で米びつの中から「ここにいてはいけない」と言う。断腸の思いで父の前を離れたサンは、父の助命を願って英祖や母のもとを訪ねる。しかし、大人たちは取り合ってくれない。必死になればなるほどサンは自分の無力さにさいなまれるのであった。
それでも彼はあきらめない。英祖が市中の巡察に出掛けたと知ると自ら逃亡し、庶民の姿になって行幸中の英祖に直訴する。
「どうか、罪なき父を生かしてください」
ひたすら懇願するサンであったが、米びつに閉じ込められた父に会いに行ったことが露見してしまう。怒った英祖はサンを捕らえようとした。
そのときだった。王宮から早馬が来て、使者が思悼世子の死を伝えた。
「なんということか……」
サンは号泣した。
英祖もただ立ちすくむばかりだった。息子を絶対に許さないつもりだったし、その決意を示すためにあえて市中の巡察に出たのだが、いざ息子が死んだという知らせを受けると、その衝撃ははかりしれなかった。
以上が『イ・サン』の第1話から第3話の冒頭部分までなのだが、画面を通して伝わってきたのは、サンが父を思う気持ちの異様なまでの強さだった。
そういう意味では、『イ・サン』というドラマほど、子が親に孝をつくす儒教的な心情を描いた作品は他にない。
今度は史実の世界に戻ってみよう。
英祖には思悼世子を許す気持ちが毛頭なかった。息子を米びつに閉じ込めた翌日の1762年閏(うるう)5月14日に、宦官の朴弼秀(パク・ピルス)と尼僧の假仙(カソン)を処刑している。2人は思悼世子をそそのかした罪に問われたのだ。
他にも思悼世子と遊興した妓生(キセン/宴席で歌や踊りを披露する女性)の5人が処刑されている。
本当に哀れなのは妓生たちである。彼女たちは仕事で思悼世子の宴席に出ていただけなのに、完全にとばっちりを受ける形になった。
罪もなき彼女たちを処刑するほど、英祖の思悼世子に対する怒りは強かった。
それは、米びつに閉じ込めてから6日経った閏5月19日になっても同様だった。この日になって、英祖は思悼世子を補佐していた側近のほとんどを罷免した。これは思悼世子を絶対に許さないということを明確に示したものだった。
この時点で思悼世子の生死はどのようになっていたのだろうか。
食料も水も与えられず狭い空間に閉じ込められたままの思悼世子は、まだ生きていたのかどうか。それは誰にもわからないことだった。
結局、思悼世子が米びつの中で息絶えているのがわかったのは閏5月21日のことで、閉じ込められて8日目だった。
世子ともあろう人が、いつ亡くなったのかも確認できないのである。あまりにむごい死に方だった。
思悼世子が亡くなったという知らせを受けた英祖は、息子を米びつに閉じ込めた張本人でありながら、急に深い哀悼の意を表した。「どうして30年近い父と子の恩義を感じないでいられるだろうか」と言って嘆いたのだ。
しかし、すでに遅かった。そんなに息子を哀悼するなら、生きているうちに米びつから出してあげるべきだった。
英祖は非常に偏屈な王であった。その性格が餓死事件を生んでしまったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
イ・サンが父・思悼世子(サドセジャ)の助命を嘆願したのは事実なのか?