イ・サン(正祖)が即位直後に一番やりたかったことは?

 

1776年、24歳で正祖(チョンジョ/ドラマ「イ・サン」の主人公)は王になった。即位後の第一声は「嗚呼!寡人は思悼世子の子なり」という言葉だった。この「寡人(クァイン)」というのは、王が自分のことをいうときの表現だ。




王となった正祖

正祖の父親である思悼世子(サドセジャ)は、一部の政治を任せられるほど聡明であったが、素行が悪かった。さらに、周囲の人間に陥れられた部分もあった。その結果、息子の行動に激怒した父の英祖(ヨンジョ)によって米びつに閉じ込められて餓死してしまう。
思悼世子は、罪人というかたちで扱われていた。そのため、本来なら彼の息子である正祖は王になることができないはずだった。
しかし、思悼世子には早世していた兄の孝章(ヒョジャン)がいた。正祖は、その孝章の養子となったことで、22代王として即位することできた。
王となった正祖は、亡き父の妹や母の叔父など身内も含めて、父を陥れた敵対勢力を次々と処罰していった。
一方、正祖が処罰すべきかどうかで悩んだ相手が、英祖の二番目の正室だった祖母の貞純(チョンスン)王后で、彼女も思悼世子を追い詰めた1人である。




朝鮮王朝時代は儒教社会だったため、祖母を処罰することは「孝」にそむく行為となる。そのため、いくら正祖が処罰したいと思っていても、それは簡単ではなかった。なぜなら、まだ王になったばかりで、人望を失うわけにはいかなかったからだ。
一方、貞純王后も断食をして処罰を逃れようとしていた。正祖は、父である思悼世子の無念を晴らすために貞純王后を処罰すべきかどうかをかなり悩んだが、結局は処罰しないで、敵対勢力を牽制することで貞純王后を孤立させた。
1800年に世を去った正祖だが、彼の死因に関しては貞純王后に毒殺された可能性があると言われている。
在位中に多くの功績を残し、名君とまで呼ばれた正祖だが、貞純王后を厳しく処罰しなかったことが彼の唯一の失敗と言えるだろう。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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