激動の歴史を記録する5「仁祖の屈辱」

人質となった昭顕

降伏した朝鮮王朝の立場は本当にみじめだった。清が明を攻める際に支援することを約束させられたうえに、多額の賠償金を取られてしまう。さらに、多くの庶民が捕虜となり、仁祖の息子である長男の昭顕(ソヒョン)や二男の鳳林(ポンニム)も人質として連れていかれてしまった。仁祖は息子との別れをとても悲しんだ。
しかし、仁祖はいつまでも悲しんでいるわけにはいかなかった。彼は、敵に屈服して恥をさらしたため、民衆から見放されてしまったのである。
一方、人質として当時の清の首都である瀋陽に連れていかれた昭顕は、王の後継者ということで、それなりの待遇を受けた。昭顕は、瀋陽にいる間に異国の文化にかぶれてしまう。その様子は、仁祖の耳にもしっかりと届いていた。
1645年、人質から解放されて漢陽(ハニャン/現在のソウル)に戻ってきた昭顕は、父親の仁祖と対面した。周りの者たちは、感動的な親子の対面が行なわれると思っていたが、仁祖は息子を冷たくあしらった。さらに、異国の文化のすばらしさを意気揚揚と話し、それを朝鮮王朝にも取り入れようと言う息子の姿に、仁祖は機嫌を悪くした。




その2カ月後に昭顕は世を去ってしまう。これにはいくつかの説があるが、一番有力なのは、仁祖による毒殺説だ。
仁祖は1649年に54歳で亡くなった。この仁祖は死後につけられた尊号で、この「祖」は功績を残した王に付けられる。しかし、清に降伏して屈辱的な謝罪をして、多くの庶民を捕虜にさせた彼には「祖」は相応しくない。その捕虜にされた庶民の人数は50万人に近いと言われている。
それほどまでに多くの人を苦しめた仁祖。彼のようなぶざまな姿をさらした王は、それまでにはいなかった。仁祖が民衆から見放されたのも当然のことだ。仁祖が、朝鮮王朝27人の王の中で、一番情けない王であるのは間違いない。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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