イ・ヨン(孝明世子)はどんな人物だったのか

 

大ヒットした時代劇『雲が描いた月明り』でパク・ボゴムが演じた主人公のイ・ヨンは、歴史的には孝明(ヒョミョン)世子と呼ばれた。彼は果たして、どんな人生を歩んだのだろうか。

写真=韓国KBS『雲が描いた月明り』公式サイトより




18歳で国王の代理となる

◆孝明世子は23代王・純祖(スンジョ)の長男として1809年に生まれた。母は純元(スヌォン)王后である。
◆孝明世子は幼いころから聡明で、わずか8歳で最高学府の成均館(ソンギュングァン)に入学して、さらに学問を積んだ。
◆孝明世子は立派な青年に成長し、18歳から父に変わって政治を代行した。純祖は孝明世子の才能を高く買っていて、早くから政治の表舞台で経験を積ませたいと考えたのである。
◆孝明世子が政治を代行した1827年当時、母の純元王后の実家であった安東(アンドン)・金(キム)氏の一族が政権の中枢を占めていた。そうした困難な中で、孝明世子は優れた統治能力を発揮した。
◆孝明世子は人事を刷新した。それは、安東・金氏の専横を抑えるためで、新しい人材をどんどん登用した。その際に重用されたのは、孝明世子の妻の実家である豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏の一族だった。




◆孝明世子はもともと詩作に優れていたが、その感受性の豊かさは人事面でも発揮された。孝明世子は自分が政治をうまく動かせるように臣下たちを適材適所に配した。その中で、岳父にあたる趙萬永(チョ・マニョン)は孝明世子の後押しによって最大級の出世を果たした。
◆孝明世子の業績で特筆すべきは、宮中行事を改善して冠婚葬祭の典礼を新たに整備したことだ。朝鮮王朝は儒教を国教にしているので、先祖に対する祭祀は最重要な儀式に位置づけられていた。そうした祭祀においても、孝明世子は自ら先頭に立って礼楽を整えたりした。
◆孝明世子は次々に実績を作っていった。民衆のために刑罰を改めたりもした。彼の統治が続けば、朝鮮王朝は様々な面で改革が進んだことだろう。しかし、孝明世子の最大の課題は健康問題であった。
◆1830年、孝明世子は喀血して病床に伏してしまった。王家の治療チームの中に、漢方薬に詳しい官僚も加えられた。当時の朝鮮王朝の中で漢方薬の専門家が身分を越えて集められたのである。事態はそれほど深刻だった。




◆結局、孝明世子は21歳という若さで亡くなった。誰もが朝鮮王朝の未来に希望を持てなくなってしまった。
◆政治を代行した期間はわずかに3年間だった。あまりに短いと言わざるをえない。しかし、その期間になし遂げた業績も多い。もし国王になっていれば、世宗(セジュン)と同様の名君になっていたことだろう。早すぎる死があまりに惜しまれた。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

まだ見ていなければぜひ『雲が描いた月明り』を!

落差が大きい役を演じる/パク・ソジュンの神髄:第1回

トンイと張禧嬪(チャン・ヒビン)を比べたらどちらが悪女?

注目記事のエッセンス1

記事「トンイは張禧嬪(チャン・ヒビン)より悪女なのか?」

ドラマ『トンイ』は日本でも大人気を博した。トンイを演じたハン・ヒョジュの魅力もあって、トンイがいかにも明るくて純粋な女性のように描かれていた。一方の張禧嬪は、朝鮮王朝3大悪女の1人に数えられて、悪女の代名詞になっている。しかし、本当の悪女はどちらだったのだろうか。史実を見ていくと、トンイの別の顔が見えてくる。

ページ上部へ戻る