朝鮮王朝の22代王・正祖(チョンジョ)は、ハングルを創製した聖君・世宗(セジョン)と並ぶほどの名君と評価されている。何よりも、頭脳明晰で学者顔負けの博識だった。彼はドラマ『イ・サン』の主人公としてもよく知られている。
ドラマになかった毒殺説
韓国で歴史好きな人は「正祖は毒殺されたのではないか?」と思っているのだが、ドラマ『イ・サン』では正祖の毒殺説がまったく出てこなかった。
それは、イ・ビョンフン監督の意向が優先されたからだ。物語の最後に正祖が毒殺される場面を持ってくると、ドラマ全体の印象が暗くなるので、あえてイ・ビョンフン監督は毒殺説に触れなかった。
しかし、現実的に正祖が毒殺された可能性はきわめて高い。
そのあたりの事情を見てみよう。
1800年6月、正祖は重病になった。
しかし、彼は主治医に自分の診察をさせなかった。毒殺されることを極度に恐れていたからだ。
そんな状態だったので、正祖の病状も悪化するばかりだった。
そのとき、看病と称して出てきたのが貞純(チョンスン)王后だった。
この貞純王后は、正祖の祖父として著名な21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室である。
正祖の父の思悼世子(サドセジャ)は、当時の政治を牛耳っていた老論派(ノロンパ)の陰謀によって米びつの中で餓死したが、その際に裏で動いた黒幕の1人が貞純王后であった。
それだけに、正祖にとっても天敵に当たる女性だ。
とはいえ、形の上で貞純王后は祖母にあたるので、正祖もまったく手出しができなかったのである。
貞純王后は正祖が重病になると現れて、側近たちをみな別室に下がらせた。つまり、病床で2人っきりになったのだ。
すると、すぐに正祖は息を引き取ってしまった。
果たして、正祖の身に何が起こったのか。
あまりに異常な事態に「正祖は貞純王后に毒殺された」という噂が起こった。
実際に動機もあった。正祖が亡くなって最も得するのは貞純王后だったのだ。
結局、正祖のあとを息子の純祖(スンジョ)が継いだが、10歳と幼かったので、貞純王后が摂政を行なった。
そして、正祖が進めていた改革をすべてつぶし、その側近たちをことごとく追放してしまった。さらには、政敵にキリスト教徒が多いという理由で、キリスト教の大弾圧を行なった。
王朝を意のままに動かした貞純王后。彼女は、正祖の死によって、あらゆる利権を手にして、女帝のようにふるまった。
毒殺の張本人と疑われるのも当然なのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)