粛宗(スクチョン)は、一度は廃妃にした仁顕(イニョン)王妃を復位させようとしました。それは同時に、張禧嬪(チャン・ヒビン)の王妃失格を意味していました。こうして南人派が弱くなり、西人派が勢いを強めていきます。
王妃に戻った仁顕王后
「朝鮮王朝実録」の1694年4月12日の記録に載っている粛宗の発言です。
「最初は奸臣たちにそそのかされて間違って処分してしまったが、ようやく本当のことを悟った」
このように、粛宗は重臣たちに責任を転嫁して、仁顕王后を廃妃にしたのは間違いだったと認めました。そのうえで、仁顕王后を王妃に戻すことと張禧嬪を王妃から降格させることを発表しました。
このとき、最大の懸案となったのは、粛宗と張禧嬪の間に生まれていた息子の処遇でした。この息子は6歳になっていて、すでに世子(王の後継者)に指名されていました。しかし、張禧嬪が王妃から降格すると、世子の身分も不安定になります。王の後継者という立場を失うおそれがあったのですが、熟慮の末に、粛宗は世子の身分を変えないことを決定しました。
そうであるならば、なおさら、高官の一部は張禧嬪が王妃から降格することに反対します。しかし、粛宗はその訴えを却下します。こういうときの粛宗は誰の意見も聞かない超ワンマンな王でした。
彼のわがままで、仁顕王后は王宮から追放されたり王妃に復帰したりしましたし、張禧嬪は王妃になったかと思ったら再び側室に降格しました。いわば、粛宗のまわりの人は振り回されっぱなしです。
その中で粛宗だけが悦に入っていました。彼は強い王でした。女性問題で宮中を混乱させながら、その治世は安定していました。それは彼に政治的な業績があり、強大な王権があったからでした。それで、粛宗は自分の好き勝手にできたのです。
ようやく王妃に戻った仁顕王后ですが、やはり病弱で寝こむことが多く、1701年8月に亡くなります。
この直後に、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の訴えにより、張禧嬪が自分の部屋のすぐそばに祠を建て、巫女を集めて仁顕王后を呪い殺す儀式をひんぱんに行なっていたことが発覚します。張禧嬪は窮地に陥りました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(次に続く)