悪政に苦しむ民衆
仁宗は、即位からわずか8カ月で世を去ってしまう。彼の死因の1つの可能性として、文定王后に毒殺されたのではないかと言われている。
その仁宗の後を継いで13代王・明宗(ミョンジョン)となったのが、文定王后の息子の慶源大君である。
しかし、このとき明宗はまだ11歳だったため、母親である文定王后が代理で政治を行なった。
政治の実権を掌握した文定王后は、自分の一族の者たちを重要な職に就けていった。その影響で政治が腐敗してしまった。
さらに、当時の朝鮮半島では作物が育たず、民衆たちが飢餓に苦しんでいた。それなのに、文定王后は何の対策も立てずに民衆を見捨てたのである。
王の母親という立場を利用して様々な悪政を行なった文定王后は、1565年に世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)
康 大地(こう だいち)
1986年東京生まれ。韓流を扱うムックやサイトに原稿を執筆。特に、韓国時代劇や朝鮮王朝に関する記述が多い。現在は主に「歴史カン・ヒボン」「朝鮮王朝オッテヨ」「韓国時代劇アンニョン」「朝鮮王朝事典チャレソ」などに記事を書いている。
中宗(チュンジョン)はなぜ文定(ムンジョン)王后の悪行を止めなかった?
2人の悪女!文定(ムンジョン)王后と鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)