早世したために歴史上でもあまり知られていなかった孝明(ヒョミョン)世子。しかし、『雲が描いた月明り』が大ヒットし、その主人公として現代韓国でも有名になった。果たして、どんな人物だったのだろうか。
10歳で嫁を迎えた
名君と呼ばれた22代王・正祖(チョンジョ)が1800年に世を去ると、息子の純祖(スンジョ)が10歳で23代王に即位した。
彼の正室が純元(スヌォン)王后である。
この女性は大変な活動家で、純祖の性格がおとなしいことを利用して、自分の実家の一族である安東・金氏(アンドン・キムシ)をどんどん重職につけた。
こうして安東・金氏が朝鮮王朝の政治を牛耳るようになると、純祖もようやく妻の実家を牽制するようになり、具体的な行動に出た。
それは10歳だった息子の孝明世子の正室に豊壌・趙氏(プンヤン・チョシ)の一族の娘を迎えることだった。
つまり、豊壌・趙氏を重用して安東・金氏に対抗させようとしたのだ。
孝明世子の成長にともなって豊壌・趙氏は安東・金氏の勢力を上回った。もはや安東・金氏の没落はさけられなかったのだが、驚愕すべき悲劇が起こってしまった。孝明世子がわずか21歳で1830年に亡くなってしまったのである。
有力な後ろ楯を失った豊壌・趙氏は力が衰え、逆に安東・金氏が復活した。純祖の意図は息子の死によって失敗に終わったのだ。
以後は純元王后が世を去る1857年まで安東・金氏の天下が続いて政治が腐敗した。いわば、孝明世子の死は朝鮮王朝にとっても悲劇だったのである。
それにしても、21歳での早世というのはあまりに早すぎる。
「孝明世子は安東・金氏の勢力に毒殺されたのではないか」
そういう憶測がずっとつきまとっていた。
その可能性も確かにある。
孝明世子の死によって安東・金氏が復活した。純元王后が自分の息子の命を狙うというのは考えにくいが、一族の他の誰かが毒殺を狙ったということは十分にありうるだろう。それくらい、安東・金氏にとって孝明世子は最大の敵だったのである。
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パク・ボゴムが演じたイ・ヨン(孝明世子〔ヒョミョンセジャ〕)の人生!
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イ・ヨン/孝明世子(ヒョミョンセジャ)をめぐる歴史的背景とは何か?