前人未到の長距離3冠
ピータースのほうも疲れが出てきてペースを落としたかったが、怪物に尋ねられればやせ我慢を装うしかない。
「遅いくらいだよ」
そう言って、さらにピータースはペースをあげた。これはあまりに無謀だった。無理がたたってピータースは30キロメートル過ぎに脱落。道路にすわりこんでしまう始末だった。これでザトペックは単独でトップに立った。
ハイペースに巻き込まれ、ザトペックの疲労も極致に達した。死を意識するほどの苦しみに襲われた。しかし、彼はそれに堪え抜いた。
なぜ、それが可能だったのか。それは、これまでの人間の中で一番多く走ってきたと確信できたからだった。それも、インターバルを初めとしたスピード練習が中心で、誰よりも効果的なトレーニングを積んできたという自負があった。
人間が走る姿として、ザトペックほど見苦しく見える選手は他にいなかった。上体は激しく揺れ、口はだらしなく開き、あごは上がったままだった。
「なんでそこまでして走らなくてはならないのか」
見る者にそういった懐疑の念を起こさせるほどザトペックは苦しみにあえぎながら走ったが、その「ぶざま」には大きな意味があった。長距離選手が持久走だけに取り組むのが当たり前の時代に、彼は積極的にスピード練習を取り入れて長距離界に真の科学性をもたらした。苦痛はその代償でもあった。
栄光のゴールを駆け抜け、前人未到の長距離3冠を達成したザトペック。大観衆から嵐のような歓声を浴びても、彼の表情はまだ苦しみに歪んだままだった。(ページ3に続く)