正祖(チョンジョ)にとっては、息子の純祖(スンジョ)が10歳で貞純(チョンスン)王后の摂政を受けたことは誤算でしょう。しかし、この点で正祖は迂闊でした。なぜなら、もしも自分に何かあった場合に、純祖にどのような後見人をあてるかをはっきりさせておかなかったからです。
勢道政治とは何か
正祖は、自分がいなくなったときの備えをしていませんでした。貞純王后は正祖の重用した人間をことごとく追放し、正祖の行なっていた改革もすべてやめてしまいます。また、自分の政敵が多いという理由でカトリック教徒の大弾圧を行ない、朝鮮王朝はすっかり血なまぐさくなっていきました。
1800年代の朝鮮王朝は政治が大いに乱れ、外国の干渉によって衰退への道をたどっていきます。その原因となったのが勢道(セド)政治です。これは、王の外戚が牛耳る政治のことです。
結局、貞純王后は4年間摂政を行なった後の1805年に世を去りますが、その後に政治的実権を握ったのが金祖淳(キム・ジョスン)でした。この金祖淳が勢力を伸ばせたのは、自分の娘が純祖の嫁になったからです。その娘は純元(スヌォン)王后と言いますが、彼女の存在が勢道政治のきっかけとなりました。元はといえば、自分の息子の嫁に金祖淳の娘を選んだのが正祖です。このことは、勢道政治の責任の一端が正祖にあることを示しています。
確かに正祖は名君であり、博識で人格高潔であったことは間違いはありません。たとえば、朝鮮王朝の王は毎日2回ほど当代随一の学者を呼んで儒教の教典や歴史書を勉強しますが(これを「経筵(キョンヨン)」と言います)、正祖はこの経筵に歴代王で一番熱心でした。逆に正祖のほうから学者に教えていたくらいで、彼は明け方に鶏が鳴くまで学問に没頭することがしばしばだったと言われています。
正祖は10代のときから、派閥争いの渦中で命を何度も狙われました。いつでも逃げられるように、服を着たまま寝ていたという話もあります。起きていることが一番安全であり、そのために深夜の読書が習慣になってしまったのでしょう。48歳で亡くなったのも、睡眠不足による疲労の蓄積が原因だったかもしれません。あるいは、噂にあるように貞純王后による毒殺だったのかも……。
いずれにしても、正祖が心血を注いだ改革が、死後に政敵たちによって根こそぎ頓挫させられたことは不条理です。やはり、死があまりに早すぎたのです。ドラマ『イ・サン』では、正祖も思慮深く高潔に生きた王という印象を残しましたが、生涯は救いようがない最期で終わりました。その点が残念でなりません。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
イ・サンが父・思悼世子(サドセジャ)の助命を嘆願したのは事実なのか?
イ・サンを取り巻く個性的な五大王宮女性/朝鮮王朝の五大シリーズ18