朝鮮王朝の歴史はこうなっている(後編)

 

1608年、15代王の光海君(クァンヘグン)が即位した。当初は戦後の復興に尽力した王として評価されたが、しだいに官僚たちの派閥闘争に巻き込まれ、自ら政治を混乱させてしまった。

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歴代の国王の位牌を祀った宗廟(チョンミョ)




屈辱にまみれた国王

1623年にクーデターが起きて光海君は島流しになった。朝鮮王朝で流罪となった王は燕山君(ヨンサングン)に次いで2人目である。
その光海君に代わって仁祖(インジョ)が16代王として即位したが、彼は最も屈辱を受けた王だった。
というのは、朝鮮王朝は1636年に中国大陸の清に攻められて降伏したが、仁祖は清の皇帝の前で土下座のようなことまでしなければならなかったからだ。
しかも、仁祖の息子たちは清の人質として連れていかれてしまった。国王としてこれほどの屈辱はない。
以後、朝鮮王朝は清に対して臣下の礼を取らざるをえなくなり、何かと干渉を受ける羽目となった。




17世紀後半からの朝鮮王朝は、強い統率力をもった王が何人も出ている。代表的なのが、19代の粛宗(スクチョン)、21代の英祖(ヨンジョ)、22代の正祖(チョンジョ)である。順に業績を見てみよう。
1674年に即位した粛宗は王権の強化に務め、商業を活発にして国民生活の向上に尽力した。ただし、希代の悪女と称される張禧嬪(チャン・ヒビン)を一時は正妃にすえて宮中を混乱させたという問題も起こしている。
英祖(ヨンジョ)は1724年に即位したが、彼は官僚たちの派閥争いを抑えることに力を注いだ。実施した政策は蕩平(タンピョン)策と称される。これは各派閥から公平に人材を登用しようとするもので、派閥権力の均等化をはかるうえで効果があった。英祖はまさに人事の才能に優れた王だったと言える。
それほど人心を掌握できたのに、なぜ我が子を救えなかったのか。実は、英祖は後継者に決まっていた息子の壮献(チャンホン/後の思悼世子〔サドセジャ〕)を米びつに閉じ込めて餓死させるという、信じられない愚挙をおかしている。




それは1762年のことだった。壮献は素行に問題があったとしても、権力闘争を続ける奸臣たちに言いくるめられた結果だった。
このことを英祖は生涯にわたって後悔し、苦しい晩年を過ごした。政治的には名君であっただけに、たった一度おかした過ちが惜しまれる。
(ページ2に続く)

朝鮮王朝の歴史はこうなっている(前編)

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